TOP > 遺跡から見た高知
旧石器・縄文時代
高知県は全国的にみても旧石器時代の遺跡が少なく、最初に報告されたのは1965年の高間原(たかまがはら)古墳群(高知市)の調査で出土した細石刃核(さいせきじんかく)です。その後1980年頃までは3遺跡しか知られておらず、2017年現在では35遺跡を数えるようになりましたが、実際の発掘調査で確認されたのは9遺跡で、その他は表採によって石器が確認されています。
弥生時代
弥生時代は中国大陸や朝鮮半島からの影響を受けて水田での稲作が行われるようになり、現在の日本文化の基礎となった時代です。また、この時代は青銅器や鉄器などの金属器が使われ始めた時代でもあります。これら金属器は朝鮮半島よりもたらされ、青銅器はおもに祭祀(さいし)の道具として、鉄器は主に実用品として使用されるようになりました。このような生活様式の変化とともに土器にも変化が現れます。
古墳時代
古墳時代は、考古学の時代区分で、定型化した大型の前方後円墳が出現し、古墳が作られなくなるまでの概ね3世紀半ばから7世紀までを言います。文献史学の飛鳥時代は古墳時代の終わりの時期が該当します。弥生時代には地域ごとに分かれそれぞれの首長によって収められていたクニが連合し、やがて大王のもとにヤマト王権が確立され古代の律令国家へ向かう時期です。連合したクニは同じ価値観をもとに各地で首長の墓として前方後円墳を作りました。
古代
考古学で言う古代とは、飛鳥時代から奈良時代・平安時代までを指し、平城京や平安京などの都城を中心とした時代です。この時期、都城で出土する土器と同様な器形・法量をもつ土師器や須恵器などの土器が地方でも作られ、国内の多くの地域で同じ様な土器が出土するようになります。高知県では香美市で須恵器の窯跡が多く確認されており、高知県内でも生産されていたことがわかります。
中世
古代の律令体制が崩壊し、新たに武士による政権支配が始まった鎌倉時代から室町時代・戦国時代を中世と呼んでいます。
鎌倉時代の土佐は幕府から任ぜられた守護や守護代が治めますが、在地の安芸氏や夜須(やす)氏、地頭として赴任した香宗我部氏などが力をつけ、幡多郡は一条氏が支配していました。室町時代には細川氏が守護として土佐を治めますが、応仁の乱後京都に退転すると国人の安芸氏、香宗我部氏、本山氏、長宗我部氏、吉良氏、津野氏、大平氏と幡多の一条氏などが勢力を争います。戦国(戦乱)の土佐を制した長宗我部氏は四国制覇に挑みますが、豊臣秀吉に屈して土佐一国を安堵されることとなります。
近世
土佐の近世(江戸時代)は、関ヶ原の戦い後に土佐の国主が長宗我部氏から山内氏に替わったことにより始まります。山内氏は1601(慶長6)年に高知城の築城に着手し、1603(慶長8)年の本丸・二ノ丸の完成を待って入城し江戸時代を通じて土佐を治めました。
現在の高知城は、石垣と天守を持つ石作りの近世城郭ですが、その歴史は南北朝時代の大高坂松王丸が築いた大高坂城に始まります。1588(天正16)年に長宗我部氏が居城を岡豊城からこの地に移し城下町造りに着手し、1591(天正19)年に浦戸城に移るまで居城したと考えられています。これまで御台所跡・黒鉄門(くろがねもん)などの調査が行われ17世紀の遺構が見つかっています。