近世
土佐の近世(江戸時代)は、関ヶ原の戦い後に土佐の国主が長宗我部氏から山内氏に替わったことにより始まります。山内氏は1601(慶長6)年に高知城の築城に着手し、1603(慶長8)年の本丸・二ノ丸の完成を待って入城し江戸時代を通じて土佐を治めました。
現在の高知城は、石垣と天守を持つ石作りの近世城郭ですが、その歴史は南北朝時代の大高坂松王丸が築いた大高坂城に始まります。1588(天正16)年に長宗我部氏が居城を岡豊城からこの地に移し城下町造りに着手し、1591(天正19)年に浦戸城に移るまで居城したと考えられています。これまで御台所跡・黒鉄門(くろがねもん)などの調査が行われ17世紀の遺構が見つかっています。また、三ノ丸の石垣整備に伴う調査では、石垣の裏から長宗我部期と考えられる石垣とともに「桐文瓦(きりもんがわら)」が見つかっています。
近年は城下町での発掘調査も増え、武家屋敷跡などが見つかり城下町関連の絵図との検討が行われています。追手筋遺跡は、江戸時代の絵図等では二つの屋敷が描かれており、家老である山内家や百々(どど)家、藩医である村田家が居住していたとされている場所にあたります。調査で出土した木簡の中には「山内蔵人」「百々出雲」「村田」といった名前が書かれており、絵図に書かれていた人物が実際に居住していたことがわかりました。その他、鍋などの生活用品とともに中国製の青花(せいか)や志野焼、織部焼、絵唐津などの高級品、趣味の道具や玩具も目立ち上級武士の生活の一端がうかがえます。また、区画溝、上水施設などの屋敷の施設とともに全国的にも類例の少ない武家屋敷の庭園の池跡が5基見つかり大変注目されます。
その他にも高知城伝下屋敷跡、高知城跡北曲輪(きたくるわ)地区、金子橋遺跡、西弘小路(にしひろこうじ)遺跡、弘人(ひろめ)屋敷跡などが調査され、江戸初期から幕末までの遺構や遺物が見つかり、城下町の武家屋敷や当時の生活の様子などが分かってきています。
近世になると国内での陶磁器の生産が本格的になり、現在でも生産地として知られる唐津や瀬戸が生産の中心となり全国に流通し、近世の遺跡からはこれらの陶磁器が大量に見つかります。土佐では小津町に藩窯として尾戸(おど)窯が造られ、主に陶器を生産します。19世紀には能茶山(のうさやま)窯で磁器が生産されはじめ、「茶」の刻印が入った陶磁器類が城下町の他に田村遺跡群、小籠(こごめ)遺跡などの集落遺跡で見つかっています。