中世
古代の律令体制が崩壊し、新たに武士による政権支配が始まった鎌倉時代から室町時代・戦国時代を中世と呼んでいます。
鎌倉時代の土佐は幕府から任ぜられた守護や守護代が治めますが、在地の安芸氏や夜須(やす)氏、地頭として赴任した香宗我部氏などが力をつけ、幡多郡は一条氏が支配していました。室町時代には細川氏が守護として土佐を治めますが、応仁の乱後京都に退転すると国人の安芸氏、香宗我部氏、本山氏、長宗我部氏、吉良氏、津野氏、大平氏と幡多の一条氏などが勢力を争います。戦国(戦乱)の土佐を制した長宗我部氏は四国制覇に挑みますが、豊臣秀吉に屈して土佐一国を安堵されることとなります。
高知県西部を流れる四万十川の支流中筋川の左岸に位置する具同中山遺跡群(四万十市)では、鎌倉時代から室町時代の掘立柱建物跡群が確認されています。在地で作られた土師質土器の杯や皿などの供膳具のほか、瓦器椀(がきわん)や土師質土器の鍋、東播系捏ね鉢(とうばんけいこねばち)、備前焼、常滑焼といった県外製品の調理具や貯蔵具や白磁や青磁といった貿易陶磁器類など他地域からの搬入品も多数出土しています。また、隣接する船戸遺跡からは他地域の土器とともに石製の碇が見つかっており、遺跡の「船戸」という字名からも川津(港)としての役割をもった遺跡と考えられます。
県中央部に位置する田村城跡(南国市)は室町時代の守護代細川氏の居館と推定されています。城の中心部が二重の堀で囲まれた「平地城館」です。隣接する田村遺跡群では13〜14世紀、14〜15世紀前半、15〜17世紀初頭の3時期にわたる屋敷群が見つかっており、溝に区画されたものとそうでないものとに大別できます。溝に区画された屋敷は在地の名主や細川家家臣や給人層のものと考えられ、田村城跡は外堀の周りに家臣の屋敷を配置して重層的に城を守る堅固な構造となっています。
仁淀川下流域の土佐市では、光永・岡ノ下遺跡、天神遺跡、林口遺跡、天崎遺跡など鎌倉時代を中心とする集落跡が多く確認されています。掘立柱建物跡、屋敷の区画溝、井戸、畑跡などとともに備前焼や常滑焼、瓦器、東播系須恵器といった県外製品や青磁、白磁、湖州方鏡(こしゅうほうきょう)といった貿易陶磁器類も出土しており、他地域との交易が盛んであった地域であることがわかります。
戦国時代には各地に防御施設を備えた山城が築かれ、県内で約700ヶ所確認されています。この時期の城は見通しの良い山の上に平坦部を造り、尾根筋や斜面に堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)といった防御施設を掘りこんで造られた「土造りの城」です。
県内では、扇城跡(四万十市)、西本城跡(黒潮町)、西山城跡(中土佐町)、姫野々城跡(津野町)、浦戸城跡(高知市)など数多くの中世城館の調査が行われています。長宗我部氏の拠点となった岡豊(おこう)城跡(南国市)では、「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」などの特徴的な防御施設とともに「天正三年銘の瓦」や「礎石建物」が見つかり、石垣の前段階となる「石積み」があることから、中世の「土造りの城」から近世の「石造りの城」に移り変わる特徴を持った貴重な城跡として国の史跡になっています。
その他に、四万十市の香山寺の山裾にある坂本遺跡では、建物跡の他に瓦窯跡・石段状遺構・基壇状遺構が見つかり、当時の寺院の様子をうかがわせる貴重な資料となっています。