若宮ノ東遺跡(南国市篠原)
【遺跡の概要】
若宮ノ東遺跡は南国市篠原に所在する遺跡で、県道・都市計画道路高知南国線の建設にともなって発掘調査が継続して実施されています。遺跡からは、弥生時代の竪穴建物群をはじめとする集落跡や古代の掘立柱建物などの遺構・遺物が数多く確認され、弥生時代から中近世までの複合遺跡であると理解されます。なかでも平成30年度の調査で発見された大型掘立柱建物跡は県内最大級の規模を誇り、土佐の古代社会を見ていくうえでも特筆する内容を備えています。県道に関する調査の周辺では、南国市教育委員会が市の都市区画整理事業のための発掘調査を実施しており、県と市を合わせた複数年にわたる広域な発掘調査により、土地に眠る古代の記憶が現代に甦ろうとしています。
【大型掘立柱建物跡の発見】
掘立柱建物跡〈ほったてばしらたてものあと〉とは掘った穴(柱穴〈ちゅうけつ〉)に柱を立て埋め戻して柱を固定し、屋根をかける建物です。今回見つかった柱穴は一辺約1.2mの隅丸方形〈すみまるほうけい〉を呈し、深いものでは1.6mもありました。柱の直径をはるかに超える大きな柱穴です。柱穴は南北に3基ずつ、東西に8基ずつが整然と並んで見つかりました。正確な測量が行なわれていたことが窺〈うかが〉われます。
建物の平面規模は柱と柱の間の数であらわすことができ、今回の建物は2間〈けん〉×7間となります。柱自体は抜き取られていましたが、柱の痕跡(柱痕跡〈はしらこんせき〉)から直径は約30㎝の柱が立てられていたと推測されます。柱痕跡と柱痕跡の距離(柱間寸法〈ちゅうかんすんぽう〉)は約3m(10尺)ありましたので、床面積は南北約6m、東西約21mの約126㎡となります。高知県の古代のものでは最大規模のものです。(廂〈ひさし〉まで含めると8世紀後半の下ノ坪遺跡(香南市)で見つかっている建物跡が最大のものです。)また、柱間寸法が約3mもあるものは県内では他に例がありません。
【須恵器の大甕を割って、安全を祈願】
3つの柱穴から別々に出土した須恵器の破片どうしがくっつきました。柱穴に柱を立て埋める時に須恵器の大甕〈おおがめ〉を割り、特定の柱穴に埋めたようです。柱を立て、柱穴を埋める段階で建物が無事に完成することを祈願した祭祀を行なっていたと考えられます。この大甕にはお酒でも入っていたのでしょうか。
【7世紀後半の特別な施設】
今年度(平成30年度)の発掘調査で見つかりました大型の掘立柱建物跡と平成28年度と平成29年度に見つかっていました大型の柱穴列や溝跡が一連の施設であることが明らかとなりました。以上のことから掘立柱建物跡の周囲に塀を巡らせ、さらに外側に溝を巡らせていました。塀は柱穴の規模から周囲からは中の様子が見えず、見た人は威圧感を受けたことでしょう。特別な施設であったことは間違いありません。
この施設の時期については溝跡から見つかった7世紀後半の須恵器の蓋〈ふた〉から飛鳥時代と考えられます。飛鳥時代は奈良県に都を造り、中央集権国家を目指していた時代で、古墳時代的な支配体制から律令国家的な支配体制への転換期にあたります。土佐ではどのようなにして律令国家に組み込まれていったのかを考古学的な成果から明らかにすることができます。このことは土佐(高知県)のことだけにとどまらず、中央政権が地方をどのように支配していったのかを明らかにしていくためにも重要な成果と言えます。
【検討課題】
・大型建物施設の規模及び建物配置。
・大型建物施設の性格。
・周辺空間域を含めた官衙遺跡群としての遺跡評価。
・南海道〈なんかいどう〉及び古代官道〈こだいかんどう〉との関係。
・条里地割〈じょうりちわり〉との関係。
・古代以外の遺構および出土考古資料を含めた複合遺跡〈ふくごういせき〉としての総合的な遺跡理解。
・古代景観および古環境、歴史地理的な視点による遺跡理解。など
◎周辺で実施されている南国市教育委員会の調査成果とあわせて将来の展望が期待されます。
◎今後も継続して発掘調査及び整理作業を進める予定です。
【発掘調査報告書】